2014年のおしり

秋から冬にかけてがとても好きです。
季節が好きというよりも、時間の広がりが心地よいかんじ。
何かあっても何もなくてもずっとワクワクしてて、だから世界が居心地良い。

これから冬が本番を迎えそうだから、大好きのうち秋の部分を今年も無事に終えられたということで、とりあえずその収穫を振り返っておきたい。

そう、収穫だ。
今年はちゃんと、ハッキリわかる、実りのたくさんある秋だった!

10月から12月の3ヶ月、その期間の中にはじめて体験することがたくさん詰まってたし、何よりもその多くが能動的に得た経験だったからすごく楽しかったなって振り返りたくなるような秋だった。

ひとつひとつの出来事だとか何を思ったか感じたかという話、細かく話そうと思えばいくらでも話せるし話したくて仕方ないけど、そういうのは結構小出しにしてるしここでは割愛するが吉なのでしょう。

とにかく私は今まで自分の人生に自ら働きかけるということをしたことがなくて、産道を通ったときの加速の惰性だけでここまで生命維持を続けてきてた。ホントに。
だからたぶん私がこうして感動してる事々は、自分の足で歩きながら生きてきた多くの人たちにとっては昔から当然に積み重ねてきたもののひとつに過ぎないんだろうなという意識もある。

だから普通ならそんな話は人にはしないまま終わるんだけど、SNS然りブログ然り、読み手が不特定な場だと読み手が何を思うかなんてそっちのけで自分の気持ちを素直に書けて、書いた気持ちはアタマの中に整理整頓されるから(学習にはアウトプットが肝心なのだ。)

「実った!」

みたいな気持ちになるんだよね。 
そういうことのローテーションが、この秋にはあったと思う。
ああ、またインターネットはありがたいという話になってしまった。


今朝ウェザーニュースのアプリを開いたら、週間天気予報のさきっちょがもう2015年になってました。
インターネットのありがたい皆さん、今年もありがとうございました。

良いお年を!

近況

1年ぶりの更新だ…
ここでもブログは続かなかったなもう消してしまおうかなと何度も思ったけど、お別れの気持ちで記事を読み返してたらまた書き始めてみるのも案外いいんじゃないかという気になってきた。


この1年はいろんなことがあって体感時間が本当に長かった。
目に見える変化といえば住居くらいだし(そういえば引越しはとてもうまくいってて、新居は暮らしやすくて居心地もいいです)なにを為したわけでも為そうとしたわけでもないけど、とりあえず充実してたなって思える1年間だった。良かった。

と同時にこの1年は進路のことで悩み通す期間でもあって、卒業とか就職とか。単位とか就活とか。
常に心の隅っこにあって、ウー、苦しかった。

就職活動自体は年始から春頃まで少しやってたんだけど、ここ数年で持ち直しつつあった精神が一気に振り出しに戻ってしまい、死にたくて死にたくて毎日泣いて、就活と関係ないトラウマやら何やらも再発して精神ぐらぐらでダメだコリャー!で終了してた。

じゃあ今後どうしようかということで、
・就活らしい就活のいらないような企業に就職する?
フリーターになる?
・モラトリアム延長する?
・自殺する?
等々の選択肢がある中で、ブラック業界はいやだなあとか、一浪一留は社会的にヤバいよなあとか、そんなことばかり考えて答えが出せずにいた。


そんなある日に友達と飲んでて
「こんな生き方してきて今更世間の基準とか常識とか気にしてらんないよ!」
みたいな話がチラッと出た。
それは私がずっと前から頭ではわかってるつもりのことだったけど、他人の口から聴いて、また自分で声に出して言ってみて、ブン殴られたみたいに衝撃的で新鮮な言葉に感じられた。


10年前から絶望してるし劣等してるし死ぬしかないと思い続けてたはずの人生に、今更ブラックだの社会的ハンデだのの心配なんてのはバカも休み休み言えという話だったのだ。
私は私の価値観と時間軸の上で生きる、ないしは死ねばいいだけの話で、もはや世間の軸なんて何の指標にもならないハンデだらけの舞台の上に初めから立っているんだということを改めて自覚した瞬間だった。


だから、来年度は、自分の軸の上で精一杯ハイペースに生きてみることにしました。
来年度の生活が上手くいくかわからない不安はあるけど、今は憑き物が落ちたみたいに軽やかな気持ちです。

無題

昔は何事も、ことばを尽くさなければいけないとおもっていました。
 
誰かと分かり合えないことがあるようなとき、それはことばが足りないから、ことばが不適切だから、ことばが未熟だから、誰かとわたしとのあいだに横たわる溝を少しでも埋めるためには、いま場に在るよりさらに相応しいことばを探して提示していくことが必要なんだと、考えていました。
 
 
中学生になりはじめて外国語を習って、自分や自分のまわりの人びとが意思疎通のために日本語という言語を共通にしている、それがどれだけ稀有なことかにたびたび気付き、思い、感動してきました。
それまであまりに当然に使ってきた日本語というものを、はじめて相対的に認識したのです。
 
外国語は困難です。
ことばがわからない。ことばの背景がわからない。発音すらままならない。通じるわけがない。それに比べて母語はどうだ。
 
だから日本語ということばは、それを共有している者同士のあいだに適切をもって提示されさえすれば、きっと意味を意味のまま向こう岸へと運んでくれるものだと信じて長くを生きてきました。
 
 
でも最近はこう思います。
 
日本語を話しているようでも、決して自分と言語を同じくしているわけでないひとがたくさんいる。
むしろ同じことばなんて、どこでだって話されちゃいない。
メディアは常に不透明であり、なおかつそれは一様ですらない。
 
どんなに自分のことばを尽くしたところで伝わり得ないことがあり、それに至ってなおことばを模索し続けようものなら、それはもはやコミュニケーション破綻の助長にしかならない。
 
そういうことに、ふと気付いたときがありました。
 
 
わたしが話し合いを望んでも、口をつぐんでしまう人たちがいた。皆がみんなそうではないかもしれないけれど、彼らはきっと、ちゃんとわかっていた人たちだったんだと思います。
 
わたしは今までそんなとき、自分は議論をしたいのだ、これは議論をすべき場面なのだと思い込もうとしていたけれど、ほんとうは違った。
たぶんわたしはそういう意味で、議論 しか できない人間なのでした。
 
 
相手とじぶんとの間の溝を埋めたいことは、必ずしも作為から得られるわけではないのかもしれない。
 
そう考えていろんなことを思い出してみて、
やっぱりわたしははじめから、人と話すことの大部分において、人と話すために人と話しをしたかったんだなって
 
最近はそう思います。

昔話

新しいマンションの鍵を貰った。
鍵は好き。ベタだけどいいモチーフだ。

複製にはいちまんえん掛かるから、失くさないように、と念を押された。
いまどきの鍵はそんなにフクザツに出来ているのか。

自分が最後に鍵を失くしたのはいつだったか、私はすでに思い出せないけれど、子どもというのは往々にして家の鍵を失くしてしまう生き物だろう。現代の親はたいへんだと思った。


そういえば昔、たぶん小学校は低学年のころ、みんなの溜まり場だった近所の公園でカメラのお兄さんと仲良くなったことがあった。
お兄さんはよく私たちの写真を撮ったし、遊び終わったゲームソフトをくれたりもした。
私は悪魔城ドラキュラを貰った。
当然お兄さんは、子どもたちから人気を集めていた。

ある日お兄さんが、ぼくは最近鍵の写真を撮っているんだ、みんなのお家の鍵を撮らせてほしいと言った。
みんな首からぶら下げた、自分の家の鍵をお兄さんに晒した。お兄さんは写真を撮った。

私は少し警戒していた。
無邪気を装って、でも結局最後まで、自分の鍵をお兄さんには見せなかった。

その後親にお兄さんのことを話したら、危ないから付き合いをやめなさいと言われた。
私は何もそこまでするつもりはなかったのだけど、結局後日お兄さんと一緒にいるところを見つかってしまって、それでそれきりお兄さんには会いに行かなくなった。

少しして、その後もお兄さんと交流のあったらしい友だち伝てでお兄さんの撮った私の写真をもらった。
当時の私には馴染みのない、大きな版の白黒写真だった。

でもそれは、なんとなく気持ちのわるいような気がして、悪魔城のソフトといっしょにコッソリ捨ててしまった。
ような、気がする。


あのお兄さん、結局ただのカメラのお兄さんだったのかな?
いまでもたまに気にしているけど、もう、わからないんだなー。

うどんのこと

ブログ、もっと日記的利用をしたいんだけど、いろいろ特定されるのが嫌で、それに気を遣って文章書くのも嫌で、結局日記的なのは閉鎖空間 Facebook に書いてしまう!

 

ということを、先日閉鎖空間 Facebook に書いた。

書いたが、しかしそういうことをこそ、ブログに書けばいいんじゃないかと考え、ブログにも書いた。

 

 

先日 吉田のうどんを食べた。

山梨県は富士吉田市の郷土料理的うどんである。

この夏にお土産でもらったのだが、涼しくなってから温かいかけでいただこうとしばらく取っておいていたものだ。

気付いたらすこし賞味期限を過ぎていた(申し訳ない)が、そんなことを気にする私ではないのである。

 

麺とつゆのセットだ。具材は自分で用意する。

吉田うどんのレシピを調べるに、どうやら基本はきゃべつにんじんに油揚げ、そして馬肉とくるようだ。

更にはきんぴらごぼうをトッピングすることもあるようで、

そういえば前にコストコで買ったヨシダソースのグルメのたれが未開封である。

これはいい機会、ヨシダソースできんぴらごぼうも作ってみることにした。

 

西友に向かう。今日のところは馬肉は勘弁してもらおう。

にんじんは、半分はうどんの具に、もう半分はきんぴらの材料にした。

 

ヨシダソースのきんぴらごぼうは驚くほど簡単!

材料を切ってごま油で炒め、酒、ヨシダソースと順に加えていい具合になるまで炒めるだけだ。そして旨い。うどんにもよく合う。

うどんの具はとにかく切ってゆでて乗せるだけなのだが、これがまたつゆとよく絡んでおいしい。

 

また吉田うどんの特徴は「コシの強さ」であるとは聞いていたが、これが全く、その通りであった。

普段食べ慣れたうどんの感覚で3本4本と口に含んでしまったが最後、噛み切らずにすすろうものなら逆に見苦しいほどの抵抗力だ。

結局さいごの数口まで、つい何本も口に含んでは咀嚼に骨を折ることを繰り返してしまった。

 

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そういえば私は武蔵野台地に住んで長いが、いまだ武蔵野うどんを食べたことがない。

あれもまたコシの強いうどんと聞く。

今回の反省を活かしつつ、近いうちにきっと味わってみたい。

 

ごちそうさまでした!