無題

昔は何事も、ことばを尽くさなければいけないとおもっていました。
 
誰かと分かり合えないことがあるようなとき、それはことばが足りないから、ことばが不適切だから、ことばが未熟だから、誰かとわたしとのあいだに横たわる溝を少しでも埋めるためには、いま場に在るよりさらに相応しいことばを探して提示していくことが必要なんだと、考えていました。
 
 
中学生になりはじめて外国語を習って、自分や自分のまわりの人びとが意思疎通のために日本語という言語を共通にしている、それがどれだけ稀有なことかにたびたび気付き、思い、感動してきました。
それまであまりに当然に使ってきた日本語というものを、はじめて相対的に認識したのです。
 
外国語は困難です。
ことばがわからない。ことばの背景がわからない。発音すらままならない。通じるわけがない。それに比べて母語はどうだ。
 
だから日本語ということばは、それを共有している者同士のあいだに適切をもって提示されさえすれば、きっと意味を意味のまま向こう岸へと運んでくれるものだと信じて長くを生きてきました。
 
 
でも最近はこう思います。
 
日本語を話しているようでも、決して自分と言語を同じくしているわけでないひとがたくさんいる。
むしろ同じことばなんて、どこでだって話されちゃいない。
メディアは常に不透明であり、なおかつそれは一様ですらない。
 
どんなに自分のことばを尽くしたところで伝わり得ないことがあり、それに至ってなおことばを模索し続けようものなら、それはもはやコミュニケーション破綻の助長にしかならない。
 
そういうことに、ふと気付いたときがありました。
 
 
わたしが話し合いを望んでも、口をつぐんでしまう人たちがいた。皆がみんなそうではないかもしれないけれど、彼らはきっと、ちゃんとわかっていた人たちだったんだと思います。
 
わたしは今までそんなとき、自分は議論をしたいのだ、これは議論をすべき場面なのだと思い込もうとしていたけれど、ほんとうは違った。
たぶんわたしはそういう意味で、議論 しか できない人間なのでした。
 
 
相手とじぶんとの間の溝を埋めたいことは、必ずしも作為から得られるわけではないのかもしれない。
 
そう考えていろんなことを思い出してみて、
やっぱりわたしははじめから、人と話すことの大部分において、人と話すために人と話しをしたかったんだなって
 
最近はそう思います。